相棒ふくろう🦉と歴史一周、地球一周

『ただ観光のように旅をするだけでは世界の本当の姿は見えてこない』をモットーにぽつり、ぽつりと。

苦しみのない世界のつくりかた。

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こんばんは!

べいです*˙︶˙*)ノ"

 

さて、ここ数回は

『魂』とか『意識』とか

『人間存在』をテーマにした、

 

日常的な娯楽には

少し重たいものを

取り上げていますが、

 

(意外とワクワクしない?)

 

日本でも

コロナウイルスの猛威が

差し迫った今、

 

伊藤計劃の描く

この病気という病気を総て駆逐した

大規模な医療福祉社会の物語が

最終的に

『何を人間の幸せ』と位置づけるのか

 

 

その最も重要なテーマを今日は

追究していこうかと思います。

 

では、いきますよー

。・*・:≡( ε:)

 

 

 

死ぬ以外の方法で

"世界に馴染めない苦しみを

   どうしたら無くせる"のか。

 

前回も話したように、

最終的にミァハが出した結論は

 

『総ての人間を

《ハーモニー》の世界に連れていくこと』

でした。

 

 

『ハーモニー(ハーモニー・プロジェクト)』は

WatchMeを利用して

脳の意思決定を司る器官をいじることで

意識を消滅させ、

 

『感情』を消し去ることによって

人々を苦しみから解放する

というものです。

 

今私たちが生きるこの世界は

みんなが多種多様な考えを持ち、

それがぶつかり合い

たくさん傷ついたり、

 

その一方では

誰かの言葉で救われたりしています。

 

けれどこの『救いの言葉』が

義務的に発せられているとしたら、

どうでしょうか?

 

 

もちろん

この『理想的な』世界では

誰かが傷つくような言葉が

発せられることはありませんが

 

なるべく感情が動かされないよう

何もかもが

『義務的な優しさ』で彩られ、

 

『総ての人に親切にできない人間』は

『社会的に認められない』という

空気感が漂っています。

 

 

そして唯一逃れる術として

残されているのは

『死』のみ。

 

 

ミァハはこう言います。

『権力が掌握してるのは、

  いまや生きることそのもの。

  そして生きることが引き起こす

   その展開全部。

 

   死っていうのはその権力の限界で、

   そんな権力から

   逃れることができる瞬間。

 

   死は存在のもっとも秘密の点。

   死は最もプライベートな点。』

 

 

そうして逃れようとしたけれど、

死にきれなかった自殺未遂者には

再度この出来損ないを、

有用な社会リソースとして

セカイに組み込むために

 

世の中の一員として、

世の中で医療経済を回す

一単位となり、

社会的な機能を果たすために〉

〈たっぷりのカウンセリングと

薬物治療〉

が待ち構えています。

 

 

これが御冷ミァハたちが

生きる世界です。

 

私だったら絶対無理。

 

 

作中にも、

〈真綿で首を絞めるような

   強権的な優しさが支配する社会〉

と語られています。

 

〈自殺とは、

自らの命を絶つというのは、

 逡巡する意志を持った

存在にか為し得ぬ、

高度に意識的な行為〉

 

つまり感情を持ち、

思考を巡らせることのできる

人間だからこそ成し得る行為

ということです。

 

 

となると

『感情がなくなれば

苦しむ事もなくなる』

という結論に至るわけです。

 

そもそもミァハたちの生きる世界では

〈鏡の国に迷い込んだよう〉に

どこを向いても皆

「マネキンA」

「マネキンB」のようで

 

WatchMeによって身体も精神も

『均質化された人間の群れ』

がいるだけです。

 

 

そこに『個』や『自分らしさ』は

ほとんど存在していません。

 

 

だから

もし『ハーモニープログラム』によって

人の意志がなくなったとしても、

そんなに変わり映えはしない

いう皮肉。

 

 

人間の幸せは

『わたしがわたしである』

という感覚や

『自分らしさがあることではない』

 

むしろ

『感情』を持つ

『意識であることをやめたほうがいい』

 

そう、ミァハは主張します。

 

彼女が学生時代に

主張していた持論とは

まったく正反対です。

 

 

苦しみすぎて、考えすぎて、

疲れてしまったのも

あるかもしれません。

(そんな安易なものではないと思うけど)

 

 

けれど、決定打はきっと

研究機関で実験的に体験した、

ハーモニーを実行した際の

恍惚感だったのでしょう。

 

 

「この出口のない世界で、これ以上

   自分のように子どもが苦しむなら

   その幸福な世界に

   みんなを連れていこう。」と。

 

 

さらにこの主張には

『人類の進化』

という話も絡んできます。

 

 

御冷ミァハは世界にこう主張します。

 

『自然が生み出した

   継ぎ接ぎの機能に過ぎない

   意識であることを、

 

   この身体の隅々まで

   徹底して駆逐して、

   骨の髄まで社会的な存在に

   変化したほうがいい。

 

 

   わたしがわたしであることを

   捨てたほうがいい。

 

 

「わたし」とか意識とか、

環境がその場しのぎで

人類に与えた機能は

削除したほうがいい。

 

 

そうすれば、

ハーモニーを目指したこの社会に、

本物のハーモニーが訪れる。』

 

 

ハーモニープログラムを

霧慧トァンが知った時には、

彼女と同じ結論に達していました。

 

彼女たちは、

鏡写しのような存在なのです。

 

霧慧トァンの思索はこうです。

 

 

進化は継ぎ接ぎだ。

 

ある状況下において

必要だった形質も、

喉元過ぎれば不要になる。

 

その場その場で必要になった

遺伝子の集合。

 

進化なんて前向きな語は

間違ったイメージを

人々に与えやすい。

 

人間は、いやすべての生き物は膨大な

その場しのぎの集合体なのだ。

 

人間は病を、

病を感じることを外注に出した。

 

人間にとって

存在してもよい自然

みなされる領域は

 

人類の歴史が長引けば長引くほど

減ってゆく。

 

ならば、魂を、人間の意識を、

いじってはならない不可侵の領域

と見なす根拠は

どこにあるのだろう。

 

人類は既に「自然な」病の大半を

征服してしまっているというのに。

 

だとしたら。

我々人類が獲得した

意識なるこの奇妙な形質を、

とりたてて有り難がり、

神棚に祀る必要がどこにあろう。

 

 

倫理は、神聖さは、

すべて状況への適応として

脳が獲得したに過ぎない

継ぎ接ぎの一部だ。

 

 

悲しみも、喜びも、

すべて「ある環境で」においてのみ、

生きるために必要だったから、

生存に寄与したから

存在しているだけだ。

 

感情の実用的な耐久年数が

とっくに擦り切れていたら。

 

社会的動物である人間にとって、

感情や意識という機能を

必要とする環境が、

いつの時点でか、

とっくに過ぎ去っていたら。

 

我々が

(進化の過程で生み出した)糖尿病を

治療するように、

 

感情や意識を「治療」して

脳の機能から

消し去ってしまうことに

何の躊躇があろうか。

 

『かつて』。

 

それは過ぎ去った環境と

時代に向けられる弔いの言葉。

 

かつて人類には、

わたしがわたしであるという

思い込みが必要だった。

 

 

もう、ぐうの音もでませんよ。

こうも考え抜かれた人間(伊藤計劃)に

そう言われれば

 

本当にそうなんじゃないかって

思っちゃいます。

 

さらにこの持論が

ミァハの生い立ちによって

強化されていきます。

 

それは御冷ミァハが8歳まで

もともとハーモニーが

実行されたのと同じ

 

『意識を持っていない状態』で

育っているということ。

 

 

意識を持たない人間は

『選択』する必要がありません。

 

すべて

『自明で行動する』からです。

 

 

ミァハたちの住む少数民族は皆

『選択という葛藤』がないだけで、

意識を持っている人間と

生活は変わりません。

 

意識と文化はあまり関係がなく、

必要であれば、笑うし、泣きもします。

 

ただ、そう在るように行動し、

一切の迷いなく、

未来永劫に向かって

 

働き続ける肉で出来た機能のような

身体があるだけ

ですが…

 

 

けれどその状態は、

恍惚で、ぼんやりとした

幸福な感覚に包まれた世界。

 

 

それは

人間が意識を獲得する

遥か以前の脳の状態、

内省や鏡写しの迷宮に

入り込む前の世界

と同義。

 

 

意識の消失を

『人間が究極に幸せな状態』だと

結論づけたミァハ。

 

幼少期の幸せだった頃の感覚に

戻りたかったのも大きいと思います。

 

(トァンに指摘された時、

そうかもしれないと

本人も言っていましたしね)

 

ミァハが全世界の人間に向けて

出した結論は

 

この作品の最大の問題提起であり、

病気を患い、若くして逝った作者が

人類に遺した宿題です。

 

 

私も幼少期に父親を亡くしたり、

幸せとはいえない家庭環境で育ったので

 

どうしても楽観的に

生きれないところがあります。

 

 

『周りに漂う空気』や

『世間の常識』は

とても恐ろしい敵でしたし、

 

 

未だに馴染めずにいる自分もいて、

少し特殊な感覚で生きてきた

自覚もあります。

 

だから

『ミァハの苦しみ』も

『トァンの苦しみ』も

共感できるところがある。

 

 

彼女たちの生き様を見て

私もこれまでの苦しみに、

何らかの答えを求めていたのかも

しれません。

 

 

『幸福を取るか』

『自我を取るか』

 

 

御冷ミァハの行動はとても大胆で

主張はすごく理解できるけれど、

 

真似できないほど

美しく歪んでいます。

 

 

なんにせよ、

この世界で私が生きていたならば

 

きっとどちらも選べず

霧慧トァンのように、

『世界の狭間で』生きていくんじゃないか

と思います。

 

 

未来を生きていく人間として

この2人の最期は、

とても良いアドバイスでは

ありませんでしたが、

 

なんだか諦めもつきました。笑

 

 

本当は2人の最期を

もっと思索したいんだけれども

今はまだ言葉として

表現できないので、

 

いつかふと人生の気づきが

降ってくればいいな、と。

 

『感情ある人間をやめられない』のであれば

せめて考え抜いて、

 

『自分だけの生きるための哲学』

というやつを手に入れて

 

最期の日に、

それまでの人生を

納得できるのであれば

『幸せ』ということなのかもしれません。

 

(分かっちゃいたけど、

結局こうなるんだなあ)

 

 

ということで次回は、

原作のそこかしこに

散りばめられている

魅力的な台詞を羅列して、

 

私の自己満足な感想とともに

このハーモニープロジェクトの幕を

下ろしたいと思います。

 

お付き合いくださいまして

ありがとうございましたヽ(*´∀`)ノ

 

 

ここまで読んでくれた人は

いるのだろうか…?

 

もし読んでいる人がいるならば、

おそらく琴線に触れる部分が

似通っているので

 

物事の本質を

突き詰めるのが好きな人…

 

 

原作のハーモニーを読んで、

もし嵌ればさぞかし楽しい思いに

浸れると思います(*´∀`)

 

 

そしてこれからも

このブログを見守ってくれれば

とても嬉しいなあ。

 

という希望的観測を残して。

 

では、また次回!*˙︶˙*)ノ"

 

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